礼拝の話

2023/06/09 

6月7日(水) 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章23~26節 音楽科 三浦

ロビーの本棚の中に「小さい“つ”が消えた日」という本に目が留まりました。

物語は、作者の幼い頃の記憶から始まります。

アパートの下にあった印刷所のおじいさんとのお話を回想してのものでした。

まだコンピューターなどない時代、印刷の仕事は、鉛でできている文字を大きな箱から1つ1つ取り出して、文章を組み合わせることから始まり、そのお片づけを手伝っていた作者は、その文字を見ながら、発音されない「小さい“つ”」のことを考えました。

そして、おじいさんに尋ねます。

「もし、小さい“つ”に音がないのなら、なくてもいいんじゃないの?捨ててしまえば?」

するとおじいさんは

「いやいや、そんなことはないんだよ。音がなくても小さい“つ”はとても大切なんだ。そうだ、いい話をしてあげよう。これを聞いたら、おまえさんも、小さい“つ”がいかに大切かわかるようになるだろう」といって、次のような話をしてくれた、と物語は続きます。

いろいろな事件が起こりますが、おじいさんは終わりにこのように言います。

「音がないから必要なく思える小さい“つ”でも、実は、他のどの文字とも同じくらい大切だってことが分かっただろう。我々はいつもそうだが、一度なくしてから、それがいかに大事だったかってことに気づくんだよね」

今朝の聖書の箇所では、1つの体は多くの部分からなっていることが書かれています。

わたしたちも、清和という体に集められたひとつひとつの部分です。

わたしたちは、弱い存在で、一人では多くのことをなすことはできない存在でしょう。

その中で、入学礼拝で聞くように、この清和に、わたしたちの思いをはるかに超えた神さまの意志として、集められた一人ひとりとして学校生活を送っています。。

できないことを数える方が楽な時もあります。

ひとりのけ者にされたようで、とっても悲しい思いをすることや逆に、周りのことを、いなくなってしまえばいいと思うような場面もあるかもしれません。

でも、そんなわたしたち、一人ひとりがいて、この清和という共同体は成り立っています。

この小さい“つ”は、ひとり悲しく家出をしましたが、最後には帰ることを決め、帰ってきた、小さい“つ”をみんなが喜んで迎えます。

「1つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、1つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とある通り、共に苦しみ、共に喜ぶ、そのような時を通して、わたしたちは一人ひとり成長していくのだと思います。

学園祭に向けての、それぞれのクラス、部活動、さまざまな活動が、わたしたち一人ひとりの心の栄養となっていくように、祈りを合わせたいと思います。

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