礼拝の話

2021/09/13 

9月13日(月)聖書 創世記 1章26~27節/2章6~7節 校長 小西二巳夫

今日は聖書の箇所を2か所読んでもらいました。

1章の話と2章の話が書かれた時代はだいたい400年くらい違います。

400年前というと、日本では江戸時代です。

今と江戸時代では言葉や生活はまったく違うように、大きな違いがあるにも関わらず、この1章と2章は「神が人間を創った」ということでは同じように書いています。

「人は神によって創られた」というのはなかなかインパクトのある言葉です。

インパクトのあるものは、人それぞれ受けとめ方に幅が出てきます。

1つは、「神が人を創った」という言葉を文字通り信じることです。

もう1つは、「神が人を創った」ということを、たとえとして受けとめることです。

この話の意図を考える、人が創られた目的はなんだろうか、創られた人がどのような生き方をすればよいのだろうかと考えるという受けとめ方です。

清和は学校創立以来120年間、どのように生きたらいいのかを考える、それを大切にしてきました。

「人が神に似せて創られた」とは、芸術作品ではなく、道具としてということです。

道具には作られた目的があります。

包丁やナイフは野菜やお肉を切るため、鍋やフライパンは煮たり焼いたりするため、お椀や皿はできあがった料理を盛り付けるための道具です。

では、道具としての人が創られた目的はなんでしょうか。

アッシジの聖フランチェスコという人がいます。

この人のものによく知られたお祈りがあります。

「分裂には一致を 疑いには信仰を 誤りには真理を 絶望には希望を」と続くお祈りですが、出だしは「私をあなたの平和の道具にしてください」です。

この一言が、人が神によって創られた目的が何かをはっきり教えてくれます。

神が人を創った目的は、平和を作り出すことにあります。

平和というとすぐに世界平和といった大きなことをイメージします。

平和の道具として創れられた目的は、もっと身近な平和を作ることにもあります。

何より自分自身と仲良くする、心の中に平和を作り出すことです。

身近な人、周囲の人と平和な関係にすることです。

平和というのは、誰もが生きやすい世界のことです。

しかし、現実はそうはなっていません。

何が平和な社会になることを妨げているのか、それを自分で考える、それもまた、平和を作り出すことには必要です。

道具が道具として役に立つためには、ふだんからその道具を大切にしなければなりません。

しっかり磨くことです。

チャペル礼拝を通して、授業を通して、自分を磨く、今週1週間をそこから始めましょう。

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