礼拝の話

2021/09/16 

9月16日(木)聖書 マラキ書 1章2節 高知聖書教会 柿谷信実伝道師

聖書は一貫して神が人を愛していることを綴っています。

神さまから人間に宛てられたラブレターと表現されることもあります。

この世界の創造の初めから、神さまが人に対して注いできた愛を、愛されている側の人間はよく理解できないことがいろいろなたとえ話で書かれています。

ルカの福音書15章には「放蕩息子のたとえ」があります

ある息子が父親の財産を生前贈与で受け取り、家を飛び出し、遊びほうけ、全部使い果たした後に飢饉が襲い食べることにも苦労し始めます。

そこで息子は我に返って、父のもとに帰り「もう息子と呼ばれる資格はない自分だが雇人の一人にしてください」と言いますが、父はその息子を暖かく迎え入れ、息子としての権威を回復してくれた、という内容の例え話です。

父に例えられているのは神さま、息子は人間を例えています。

息子は父の家を出て苦労して初めて、今までどれほど愛されていたか、どれほど自分が愚かだったかを知りました。

愛されている側というのはそういうものなのかもしれません。

神さまは聖書の中でよく羊飼いに例えられることがあります。

迷いやすく弱い羊を人間に例え、いつも私たちを守り必要なものを備えてくださる神さまを羊の世話をする飼い主に例えます。

ヨハネの福音書にはこのようにあります。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

そのように私たち人間を、命を懸けて守ってくれる私たちの所有者である神さまが私たちを守ってくれます。

けれど、愛されている側の私たちはその愛に気づくことはなかなかありません。

羊が羊飼いに守られていると自覚しないで生きているように、私たちもどれほど愛され、どれほど守られているのか、分からずに生きているというのはある意味で自然です。

愛されている側は愛されていること、守られていることを意識する必要もなく、遠慮する必要もなく、ただ、与えられる愛と恵みを受けとるだけで十分なのです。

空の大きさよりも海の大きさよりも大きな神さまの愛をどれほど私たちは知っているでしょうか。

見えている範囲でしかわからないけれど、感じられる範囲でしかわからないけれど、ただ言えることは、その大きな愛で今日も私たちはつつまれています。

エレミヤ書にはこうあります。

「わたし(神)は、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」

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