礼拝の話

2022/09/28 

9月22日(木) 聖書 箴言 1章7節 日本キリスト改革派 山田教会 高内信嗣牧師

「亀の甲より年の功」という言葉があります。

「年の功」の「功」とは、「きわめて長い時間」を表わす言葉です。

つまり「年の功」とは、年を取って、長く経験を積んでいるということです。

「亀の甲より年の功」、亀の甲羅よりも年の功のほうがありがたい。

年長者の長年の経験が貴重であるということです。

英語で「賢さ」を表わす言葉には「intelligent」、「clever」、「smart」、「wise」などがいくつかありますが、「wise」という言葉を辞書で引くと「思慮深い、分別がある」と出てきます。

もう少し調べると「経験や知識が豊富であり、物事を正しく判断することができる」と出てきました。

経験に基づいた知恵です。

「wise」という言葉は、通常、経験や知識が豊富な年上の方に対して使われる場面が多くあるということでした。

2週間前に皆さんに「しくじり先生」のお話しをしましたが、失敗することは多くあります。

しかし、その経験によって、この場合はこうした方がいい、この場合はこうしたらいいということを学べるのです。

「しくじり先生」の人生訓に、人生の歩み方を教えられることがあります。

先ほど、読んでいただいた聖書の御言葉「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」の「主」というのは神さまのことです。

聖書は私たちがいる世界を神さまがお造りになったと記しています。

そのような世界を造られた大きな存在である神さまを畏れ敬うことが人間の本当の知恵の始めであり、礎であるということです。

それに対して「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と言われています。

この「無知な者」は単純に知識のない者を指しているわけではないと思います。

知的で、頭の回転の早い人も含まれていると思いますが、そういう人ほど「知恵と諭し」を侮るのです。

自分は何でも知っている、人から教えられることは何もない、と思い込んでいる人ほど、人の話を聞きません。

過去を振り返りますと私の失敗はそこにあったと思います。

人のアドバイスをとことん侮っていました。

聖書はそういう人のことを厳しい表現ですが「無知な人」と呼びます。

本当に知恵のある人は、しばしば謙遜です。

それは自分の知識が、ほんの一部でしかないということを良く分かっているからです。

だからこそ、何事も謙遜に、学ぶ姿勢をとっているのだと思います。

今、私たちはこのチャペルで神さまの前で静まっています。

この世界を造られた神さまのことなど、人間は少しも理解することはできません。

神さまが造られたこの世界の中で、私たちの知っていることは塵に等しいと思います。

だからこそ、「主を畏れることは知恵の初め」なのです。

大きな神の前にへりくだって神の知恵に聞くことがすべての知恵のはじまりになるのです。

毎日、チャペル礼拝で朝、神さまを礼拝しています。

大きなお方の前に私たちはいます。

この時間は侮れません。

この時間こそ、私たちの知恵のはじめです。

神の前で低くされた私たちは、この一日に学ぶ知識に、さらに先生からのアドバイスにも耳を傾け向けたいと思います。

そのような歩みは、きっと私たちの今後の人生を整えてくれるはずです。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ