礼拝の話

2021/05/12 

5月12日(水) 聖書 コヘレトの言葉 1章9~11節 保健体育科 山﨑

日本は70~150年の間隔で大きな地震が起き、津波の被害も伝えられていましたが、10年前の東日本大震災では多くの犠牲が出ました。

10年、20年と時間が経つにつれ、記憶が風化して、この東日本大震災が忘れ去られてしまう日が来てしまうかもしれません。

また、76年前には日本で原爆が投下されましたが、あと20年も経たないうちに「戦争を知らない世代」ばかりになると言われています。

多くの人々の命が奪われたことをこれから先何年、生きた記憶として残すことができるのか、私たちには大きな課題が残されているなと、つくづく感じます。

今、直面しているコロナウイルス感染症もその1つで、2000年以降だけでも、SARS、MARS、そして現在の新型コロナウイルスと、数年ごとにウイルス感染が流行しています。

その度に感染対策が報じられ、ワクチンの開発が進められていますが、完全にウイルスを封じ込めることはできていません。

人間は、特に嫌な記憶は、残さないように忘れてしまおうとします。

これは、ストレスによって自分の心のバランスが崩れてしまわないようにするための防御反応で、人間としてはごく普通の、当たり前のことです。

先ほど挙げた、震災や戦争、コロナウイルスのような、社会を震撼させるような大きな出来事だけではなく、私たちの日常生活にも、同じようなことが起こってはいないでしょうか。

例えば、忘れ物をして注意され叱られると、それが嫌な記憶として残り、忘れ物をしたことをなかったことにしようとして、また同じように忘れ物をしてしまうことはないでしょうか。

家族や友だちとの会話の中で、相手のことを考えず、何気なく発してしまった言葉が予想以上に相手を傷つけ、その直後は「しまった!」「どうしよう」「申し訳ない」という思いに駆られるけれども、数日後に、また別の人を同じように傷つけてしまうことはないでしょうか。

これらのように「またやってしまった!」と思うようなことが、毎日の生活の中にはよくあるのではないでしょうか。

最初に挙げた、社会的に大きな出来事も、日常に繰り返されるような小さな出来事も、それを繰り返すか、繰り返さなくて済むかは、ある1つの対処の仕方によって決まってくるのではないかと思います。

それは、その出来事を、きちんと自分のこととして受けとめているかどうか、ということです。

「自分のこととして受け止める」というのは、嫌なことから目を逸らさず、なぜそうなってしまったかをしっかり振り返り、次はどう行動すれば良いかをその都度考える、ということだと思います。

人間はついつい嫌なことから目を逸らし、考えることを後回しにしてしまう弱い心を持っています。

そんな弱い私たちに警鐘をならすような言葉、私たちを戒める言葉が今日の聖書箇所です。

過去に起こったことは、私たちの対応の仕方ひとつでこれからも起こる可能性があるから、そうならないように過去の出来事をしっかり受けとめ次に臨みなさい、とこの聖書箇所は言っているように思います。

中間テスト発表期間に入りました。

是非、過去の取り組み方を振り返り、「やってしまった!」という同じ経験を繰り返さないように、しっかり準備をして取り組めるよう願っています。

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