礼拝の話

2022/01/12 

1月12日(水)聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14~20節 日本基督教団 土佐教会 高橋伸明伝道師

今朝お読みいただきました聖書の箇所は一種のたとえです。

人間同士の関係のことを、身体の部分にたとえて話しています。

実際の人間関係にこれを置き換えてみると、例えば、運動・スポーツが得意な人が、運動の苦手な人に対して「貴女は運動が下手だから、このクラスには要らない」と言ったり、勉強の得意な人が、勉強の苦手な人に対して「貴女は勉強が下手だから、このクラスには要らない」と言ったりするのは、やめようということです。

人間というのは、一人ひとりをよく観察してみると、それぞれすごく違いがあります。

身体の大きさ、顔つき、性格、ものの考え方、しゃべり方、趣味、誰一人全く同じ人ということはありません。

けれども、私たちはともすれば、大人数の人たちが「あの子、変わってる」「あの子、変だよね」と言って、少数派の人、あるいは1人だけ変わっているように見られる人のことを、「変わっている」ということだけで、悪口を言ったり、批判したり、仲間外れにしたりしがちです。

これは日本人には特に強く見られる性質で、日本人は「みんな一緒」でないと気が済まないような雰囲気を作りがちです。

これはたぶん島国であまり外国人と出会う機会が少ない国なので、「みんな同じが当たり前」という気分になっているんだろうと思います。

でも、人間誰でも違っていて当たり前、全然違う者同士が一緒にいて当たり前です。

互いに違っている、変わっていて当たり前なんだと思うことができれば、例えば色んな人種や民族、色んな宗教、色んな文化の人と仲良くなり易くなって、広い視野を持ち、ものすごく楽しい人生を生きることができるようになります。

これからの時代、これからの世の中に生き残れるのは、そういうものの見方ができる人だと思います。

自分と違う人を嫌がったり、自分たちと変わっている人を攻撃するような人は、これから先の世界では生きるのが辛くなるだろうと思うのです。

なぜなら、世界はあまりにもたくさんの種類の、あまりにも異なった人々が互いにやり取りをしながら生きていますし、またその異なる人同士のコミュニケーションやビジネスがどんどん増えているからです。

これからの世の中では、自分と似ている人としか仲良くなれないような人、自分と違っている人を「変」だと思うような人は、生きてはゆけません。

ですから、自分とは違うタイプの人がいたら、「ああ、私が目だとしたら、あの人は耳なんだな」、「私が手だとしたら、あの人は口なんだな」という風に考えたらいいと思います。

それぞれに違ったパーツがあるから、一つの身体ができるのであって、全員が目であったり、全員が足だったりしたら、身体の機能を果たすことができません。

今朝の聖書の言葉の通りです。

自分と違うタイプの人がいたら、「あの人は私と違った、私にはできない役割を引き受けてくれている。有り難いことだなあ」と思うようにしたらどうでしょうか。

全ての人を、ありのままに認めることができれば、その時やっと清和らしい「自由」が実現するのだと思います。

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