礼拝の話

2022/02/04 

1月31日(月)聖書 ヨハネによる福音書 1章10~13節 校長 小西二巳夫

「ただいま神様当番」という小説を読んで、55年前、中3の英語の時間のことを思い出しました。

この小説の登場人物の1人にイギリス人のリチャードさんがいます。

近所に住んでいた日本人一家と親しくなり、日本語と日本が好きになって大学で勉強し、念願かなって日本の大学で教えることになりました。

はりきって英語を教えますが、一生懸命になればなるほど学生たちはやる気を失っていきました。

がっかりしているリチャードさんのところに、お節介な神さまがある日やってきます。

リチャードさんが神さまとのやり取りで気づかされたのが、speakとtalkの違いでした。

両方とも「話す」と訳されますが、持っている意味は違います。

リチャードさんはお節介な神さまとの出会いによって、自分の授業が学生に一方的にspeakするだけであって、talkがなかった、だから学生たちは自分の授業に興味を持たなかったということに気づかされます。

毎週日曜日の礼拝で、一番時間がかかるのは牧師さんの説教です。

説教は礼拝に出席する人たちに向かって話します。

その説教がspeakかtalkかというと、それはspeakです。

今、私がしているのもspeakです。

そして礼拝に出席した人は、牧師さんがするspeakをlisten聞くわけです。

牧師さんによっては40~60分話す人がいます。

長くても面白ければいいのですが、そうではないことも多いのです。

時には、神さまはこうおっしゃっています、こうお考えになっています、という場面があります。

私が若い時、それを聞くと心の中でつっこみを入れていましたが、ある時気づきました。

牧師さんの、神さまはこうおっしゃっています、をきっかけに私は知らず知らずのうちに、心の中で神とやり取りをしていたのです。

「神さま、あなたはそんなふうにいわれますが、私にはそんなことはできません。いったい私はどうしたらいいのですか。私が具体的にできることは何だと思いますか。私にわかるように教えてくれませんか。」と対話をしていたのです。

この場合の話す、対話、はtalkです。

礼拝説教のおもしろくない、そして長い話を通して、神さまとtalkさせてもらっていたのです。

しかも、私が心の中でやりとりをしている言葉は間違いなく「ため口」です。

ため口で話すということは、対等に話すことがゆるされているということです。

対等の話すことがゆるされているということは、私という存在がゆるされているということです。

受け入れられているということです。

それがわかってから、私にとって礼拝の説教はものすごく大切な時間になりました。

speakと違ってtalkは相手がいて初めて成り立ちます。

神とtalkするのは、見える、見えないに関係なく、神がそばにいてくれるということです。

神が自分のそばにいてくれる、それを感じられることほど、力強いことはありません。

そして、神とtalk対話することで、今の自分が何をすればいいのか、どうすればいいのかを考えることができます。

礼拝のspeakによって、神とtalkすることで、今一番頭を悩ませていること、困っていることに、ふっといい考えが浮かぶことがあるのです。

ふっと心が軽くなることがあるのです。

そう考えると、毎朝の礼拝はどうでもいいものではなく、大切な時間になっていくのです。

今週の1日1日も、その礼拝から始めましょう。

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