礼拝の話

2023/11/06 

10月18日(水) 聖書 マルコによる福音書 10章13~16節 日本キリスト教団 高知教会 松浦子基牧師

私の家庭には2歳の娘と10カ月の息子がいます。

先日、娘が通っている幼稚園で運動会がありました。

娘は1番小さな1・2歳児クラスにいて、幼いながらも一生懸命かけっこをしたり、頑張ってダンスを踊ったりしていました。

私が一番印象的だったのは、運動会の最後に園長先生が、園児一人ひとりに金メダルをかけて、表彰してくれたことです。

初めて運動会に参加した私の娘は、見慣れない大勢の人に終始緊張していましたが、園長先生から金メダルをもらって大喜びしていました。

今日の聖書個所にも子どもが登場します。

イエスさまがお話をしているところに、大勢の人が集まり、そこに子どもを連れた親もやってきました。

それは、自分の子どもをイエスさまに触ってもらって、少しでも祝福を分けてもらおうと思っていたからです。

ですが、今の時代とは異なって、聖書の時代の子どもたちは、価値のない存在として社会で扱われていたので、弟子たちも当然のように、子どもたちを追い払い、連れて来た親たちをなぜ子供を連れて来たのかと叱っていました。

その様子をご覧になっていたイエスさまは、弟子たちに怒りました。

それは、イエスさまは子どもを全く価値のない存在として、見ていなかったからです。

子どもは自力で衣食住を満たすことができませんが、その子どもを人々の、そして社会の中心に置くことで、子どもだけでなく大人も生きやすい状況になります。

そういう意味で子どもがはじかれる社会や人間関係は、誰にとっても生きづらい社会なのです。

そうしたことを、イエスは人々の真ん中にいる自分のところに子どもを招くことで、わざわざ抱き上げることで、人々が見上げる、大切なことである、と見える形で示したと考えることができます。

実際この時、親に連れられてイエスさまのもとにやってきた子どもたちは、何か特別な能力があり、他の子どもより秀でている子どもたちではありませんでした。

何か特別だから、良いことをしたからイエスさまに祝福されたわけではありません。

たまたま親に連れてこられた子供たちが、イエスさまのこっちにおいでという声に従って、イエスさまの前に出て行って祝福を受けました。

この受け身の姿こそ、子どものように神の国を受け入れる人を表しています。

イエスさまが導こうとしている神の国には、自分は多くの才能を持っているからとか、自分は他人よりも価値のある人間だからという、私たち人間の前提は一切関係ないということです。

このように親たちに連れてこられた子どもたちをイエスさまは一人一人抱き上げて、頭の上に手を置いて祝福されましたが、その光景を目の当たりにできたのが、この運動会でした。

園長先生が大勢の大人に囲まれた園児たち一人ひとりに金メダルをかけて表彰した時、そして園長先生が子どもたち一人ひとりに、その子にふさわしい言葉をかけている時、私はそこにイエスが子どもたちを祝福する今日の聖書の場面が見えたのです。

一人ひとりの存在が大切にされ、誰もが笑顔の中で生きることのできる神の国が見えました。

そのような祝福に私たちも招かれているのです。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ