礼拝の話

2022/11/17 

11月15日(火) 聖書 ルカによる福音書 13章6~9節 校長 小西二巳夫

ある日、朝の情報番組を観ていると「レトルトカレーランキング」をやっていました。

スーパーマーケットなどで売られているレトルトカレーを買い集めて、いくつかのポイントから、ランキングを決めるというものでした。

この番組にゲストとして呼ばれていたのが、俳優の豊川悦司です。

豊川さんの役割は、ランキング1位になったカレーとランキング外のカレーを食べて、その感想を言うことでした。

ランキング外のカレーから食べるように指示され、感想は「おいしい」でした。

次に食べたランキング1位のカレーの感想も「おいしい」でした。

まったく同じ言葉、変わらないトーンで「おいしい」と言ったのです。

それを聞いた出演者の1人が納得できないような顔をして言いました。

「おいしいが同じトーンですね」。

周りの期待は同じおいしいでも2つのカレーには大きな違いがあるという言い方をしてほしかったのだと思います。

「同じトーン」と不満げに言われた豊川さんは、そこで次のように言いました。

「どっちもおいしいですよ、強いて言えばNo.1にはコクがあるかな。子どもが食べるとしたらどっちかなあ、こっちの方がいいかもしれない」とランキング外のカレーを推したのです。

材料やスパイスのコストが2つのカレーには大きな開きがあるので、おいしさがそれに比例するのは当然です。

豊川さんのどっちもおいしい、子どもにはむしろこっちかなという言葉はランキング外のカレーも精いっぱいおいしさを追求しているから、それはそれで評価したら、ということなのです。

私は豊川さんの言葉に何か救われたような気持ちになりました。

そして番組自体を救ったのではないかと思いました。

スマホ・ケータイなどによるコミュニケーションの進化と共にどんどん強くなっていることがあります。

それは物事を白か黒かはっきり分けることです。

正しいか正しくないか、敵か味方か、あいまいな態度や言い方は許されなくなっていき、寛容さが様々な場面で奪われていっているのです。

今日本でも世界でも民主主義の危機だと言われています。

民主主義というのは、わかりやすくいうと、すぐに白か黒かはっきり分けないことです。

あいまいな部分がたくさんあるということです。

白か黒かすぐに決めないというあいまいさが人を救うことを教えてくれるのがイエスです。

今日のたとえ話は、ブドウ園の持ち主が園丁に、実のならないいちじくの木を切り倒せと命じますが、園丁はあれこれ違うことを試してみますから、来年まで、もう一年待ってください、といいます。

来年必ず実がなりますとは言いませんが、それでもだめなら、切り倒します、と言いました。

そこで考えたいのは、次の年、いちじくの木が実をつけなかったら、園丁はどのように言うだろうかです。

間違いなく園丁は次のように言うはずです。

「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。

そして、いちじくが実をつけるまで、毎年同じ言葉を繰り返すはずです。

結果が出る、出ないに関係なく、イエスは、一人ひとりはそういう形で生きることをゆるされている、愛されていると、語りかけているのです。

すぐに白黒をつけない、結果を求めない、寛容なイエスの愛に、私たちは日々救われていることにしっかり気づきたいものです。

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