礼拝の話

2021/12/20 

12月20日(月)聖書 詩編 31編24~25節 音楽科 三浦

2学期の終わりを目前にし、今一度、この礼拝の時間の意味を考えてみたいと思います。

この礼拝の時間で幾度となく「教養」という言葉を聞いてきました。

この「教養」を「教養とは他者に対する感性があるかどうかの問題だ」とおっしゃった方がいます。

私以外のすべての人に対して、その人たちがいろいろなものを見たり聞いたりしたときに、どのように感じるか、どのように考えるか、ということを考えることができるかどうかが、教養があるかどうかのバロメーターのようです。

同じ事柄でも、私ではない人、私の周りにいる人が、その事柄をどう受け取るか、考えることができること、これが教養だ、ということになります。

1944年のクリスマス、ボンヘッファーというドイツ人牧師は婚約者にある手紙を送りました。

彼はナチス・ドイツのヒトラーに反対し、捕らえられ、獄中でこの手紙をしたためたといいます。

彼はこのクリスマスの半年後、処刑されます。

自分の命が絶たれることをわかって書かれた手紙は、今生かされている恵みと苦しい中の歩みでも神さまはお見捨てになることはないと堅く信じ、遺される婚約者に希望をもって歩めるようにというものだったのではないでしょうか。

これが、「教養」なのだと思います。

同じ場所にいなくても、同じ苦しみを感じていることを思い、相手がどのように過ごせるかを想像する、これが私たち一人ひとりにも求められているように思います。

そして、ボンヘッファーは「適切な距離こそが真の接近である」とも遺しています。

家族と自分、友人と自分、他者と自分、それぞれの距離があり、そこには適切な距離が必要だということです。

片一方からの距離感ではなく、互いの距離感の中で、本当に心が近づく関係が築けていく、ということです。

私たちは、この礼拝の時間を通して、自分の痛みを知り、他者の痛みを感じる人になることが求められています。

強いものが痛みを感じないということではありません。

強い、弱い、強く見える、弱く見える、ということに関係なく、人は一人ひとり痛みを抱えています。

目に見えてわかる痛みもあれば、目に見えない痛みもあります。

その痛みを想像できる私たちでありたいと思います。

その痛みをどう互いに担い合うことができるか考える一人ひとりでありたいと思います。

この2学期の歩みを終えるにあたり、そして新しい年、新しい学期を迎えるよい準備の時をこれからの日々を通して考え続けていきたいと思います。

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