礼拝の話

2021/12/22 

12月22日(水)聖書 イザヤ書 53章1~12節 社会科 山脇

先週行われたチャペルクリスマスでは、2年ぶりにハレルヤの合唱を行うことができ、黒田理事長からは、羊飼いに救い主の誕生が告げられた場面を通して、クリスマスのお話しを聞きました。

チャペルクリスマスが終了したので、何だかクリスマスが過ぎ去ったように感じてしまいますが、本当はこれからがクリスマスを迎える時期となります。

毎朝の礼拝でも、クリスマスを迎えるにあたって、先生方が様々なお話しをしてくださいました。

イエス・キリストの生まれた意味や、なぜクリスマスを感謝して迎えるのか、毎朝の礼拝を通して一人ひとりが考えてくれたと思います。

クリスマスはイエス・キリストの誕生を感謝し、礼拝する日です。

高校2年生が演じた聖誕劇では、東方の博士が黄金、乳香、没薬をイエスへのプレゼントとして持ってきた場面がありました。

この東方の博士がイエスに贈ったプレゼントが最初のクリスマスプレゼントともいえそうですが、忘れてはならないのは、神がイエス・キリストをこの世に誕生させたことが、神から私たちへのプレゼントであったということです。

神からのプレゼントとしてこの世に誕生されたイエス・キリストは、しかし、多くの苦難をその身に受けられた人でもありました。

ハレルヤの歌詞に「King of Kings」「Lord of Lords」とあります。

「王の中の王」「主の中の主」と呼ばれたイエスは、王として、主として、何不自由のない生活を送り、王としての威厳に満ちた人物だったでしょうか。

イエスが生まれた時、寝かされた場所はどこだったでしょうか。

当時、どんなに貧しい身分であっても、赤ちゃんを家畜のえさを入れる飼葉桶に寝かせることはなかったでしょう。

つまり、どのような立場よりも低い所にイエスは生まれたといえます。

イエスが過ごした家は、ヨセフという大工の家でした。

ヨセフとマリアのもと、大工の家で、一人の人としてイエスは過ごしたのです。

ユダヤ人の王、救い主と呼ばれるイエスが、その時間の多くをともに過ごしたのは、地位の高い人々だったでしょうか。

イエスがともに過ごしたのは、そのような人々ではなく、むしろ日々の暮らしの中で苦労しながら生活を営んでいた圧倒的大多数の民衆でした。

そのような人々と交わりながら、イエスは神の愛と救いを説いたのです。

その姿は、王としての威厳に満ち溢れたものではなく、王として人々の上に君臨するものでもありませんでした。

民衆とともに喜び、祝い、悲しみ、苦しみ、悩み、十字架による死にいたるまで、一人の人として歩まれたのです。

今日の聖書箇所には、イエスが生まれる何百年も前の預言者イザヤが、やがて来る救い主について、つまりイエス・キリストについて記したものです。

ここに記されている通り、多くの民衆とともに歩まれたイエスは、最後はその民衆にも見捨てられ、十字架による死に向かったのですが、そこにこそ神の愛が示されたといえます。

イエス・キリストが私たちの罪を全て背負い、十字架に架かられたことで、私たちの罪は赦され、私たちは生かされるものとなりました。

この世を愛された神は、その独り子を救い主として私たちに与えてくれました。

その独り子の十字架による死と復活により、私たちは罪から解放され、生かされることの喜びを得ました。

イエスはそのことを、自ら身をもって示されたのです。

神は、そのようにこの世の全ての人を愛し、罪から救うため、イエス・キリストというプレゼントを私たちに贈ってくださったのです。

世界で最初のクリスマスプレゼントは、確かに東方の博士が携えてきた黄金、乳香、没薬かもしれませんが、改めて考えると、最初のクリスマスプレゼントは神が私たちに与えてくれたイエス・キリスト、その人だったのだと思います。

今日で2学期の歩みが終わりますが、クリスマスを前に、改めてイエス・キリストの誕生を喜び、感謝してその日を迎えたいと思います。

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