礼拝の話

2023/02/28 

2月20日(月) 聖書 マタイによる福音書 10章34~39節 校長 小西二巳夫

「戦争をするか」「平和でいるか」、これを損得で考えた時、どちらが得をするのかという質問に「戦争をする」と答える人はまずいません。

ほとんどの人が「平和でいる」を選びます。

それは、戦争というものを「長い目」で見ているからです。

長い目とはすぐ目の前のことだけでなく、先のことを考えることです。

長い目で見て、戦争が多くの悪いものをもたらすことを多くの人は知っているのです。

しかし、何か起これば、すぐに長い目で見ることを忘れ、目先の利益や得に飛びつき、結局状況を悪くしてしまう弱さを、私たち人間は持っているのです。

そこから考えて、人間の歴史は目先の得ではなく長い目でお互いを見る、そして物事を見るための闘いであったと言うことができます。

その闘いの中で、戦いを否定するものとして生み出されてきたものがあります。

学問や芸術、そしてキリスト教や仏教に代表される宗教です。

今日の箇所でイエスは次のようなことを言いました。

「自分がこの世界に来たのは平和ではなく戦争をもたらすためだ」。

これはイエスがそれまで言ってきたこと、行ってきたことと逆のように思えます。

イエスのこの言葉に周りの人も、いったい何を言いだすのだとびっくりしたはずです。

実はイエスの発言には根拠があるのです。

当時、平和は戦争に勝ったものによって作られると考えられていたのです。

実際イエスの生まれ育ったユダヤの国は軍事大国ローマによって支配されていました。

しかし、そのローマ帝国もやがて分裂し、ゲルマン人の侵略戦争に負け滅ぼされました。

戦争に勝つことによって作られた平和は、必ずもっと強い軍事力によって壊されることは、人間の歴史の中ではっきり証明されています。

イエスは平和を戦争によって作られるものではないと戦争を否定したのです。

マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書の中で、イエスは天の国は次のようにたとえられるとの言葉で、平和とはどのような状態のことか、平和とは国と国が人と人がどのような関係になることかを話されています。

それは利己的ではなく利他的に生きる生き方です。

いざとなったら、長い目で見ることを忘れ、目の前の得を選ぼうとして、戦争で相手の命を奪うことも平気で正当化してしまう、仕方がなかったと自分を納得させる人間に対して、利己的ではなく徹底的に利他的に生きる、そこにすべてに勝る幸せがある、平和があることを、たとえ話を通して話されたのです。

そして、それをたとえではなく、実際自分が十字架に架かることによって、利他的に生きることが自分も相手も平和にしていくことを歴史的に証明されたのです。

イエスが清和に求められていることがあります。

清和に学び清和に働く一人ひとりに、長い目を持った人になることです。

長い目で自分を見ること、他の人を見ること、そしてすべての物を見ることを求めています。

一言でいうと、利他的力を持った人になることです。

そこに、私たちの本当の幸せへの道、平和への道があるからです。

イエスのこの求めに少しでも応えることのできる自分になっていきたいと心から願います。

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