礼拝の話

2022/02/16 

2月14日(月)聖書 コロサイの信徒への手紙3章 12~13節 校長 小西二巳夫

小国さんというテレビ局のディレクターが「注文を間違える料理店」というものを考えました。

小国さんが「注文を間違える料理店」を考えたのは、認知症の人が生活する施設に密着取材していた時のことです。

認知という言葉の意味は、よく知られている、多くの人が認めている、です。

そういう病名がつけられているにも関わらず、実際はよく知られていない病気が認知症です。

政府の統計では数年後には65歳以上の人の5人に1人が認知症になるとのことで、老人でなくても、若年性認知症と言って、若い人もなる病気です。

ということは、認知症関係者は自分の周りにたくさんいるはずですが、それにも関わらず、認知症の人に出会ったことがない、よく分からないという人がいるのは、そこに大きな理由があるからです。

認知症の一般的な症状に、今までできていたこと、わかっていたことができなくなる、わからなくなることがあります。

仕事や日常生活が一人ではできなくなると、迷惑をかけたり、叱られたりすることもあって、それが嫌で、人前に出たくないと引きこもりがちになる人が多いのです。

小国さんは認知症の人たちを取材する中で、もしこの人たちがウエイター、ウエイトレスになったら、どうなるのか、それはそれでいい、おもしろいと「注文を間違える料理店」を考えました。

注文を間違える料理店で起こるのは、お水をもっていかない、注文を何度も聞き直す、注文した料理を別のテーブルに持っていく、などです。

でもこの料理店では、それがふつうですから、お客さんとのトラブルになることもない、お互い嫌な気持ちになることもないわけです。

この実験的な「注文を間違える料理店」を実際に始めたお店が愛知県にあります。

そのお店で働くある方は、認知症になってからずっと引きこもりがちの生活をしていて、なるべく顔を隠すように、できるだけ言葉少なく接していましたが、いろんな間違いを笑顔で受け入れてくれる、ゆるしてもらえるお客さんと関わるうちに、自分も笑顔になることが増えていき、顔を隠すこともなく、楽しそうに話すようになったのです。

このお店にたくさんのお客さんがやってくるのは、出される料理がおいしいからだけではなく誰もがホッとできる、心も満たされるようになるからだと思われます。

「注文を間違える料理店」は私たちにとっての理想の社会の1つと考えられます。

世の中全体がそのようになったら、どんなに生きやすいでしょうか。

それが単なる理想ではなく、一人ひとりが寛容さを持つ人になることによって、現実になることを「注文を間違える料理店」の取り組みが教えてくれているのです。

罪をおかしていないイエス・キリストが十字架に架かられたのは、私たちがゆるしの心をしっかりもった存在になるため、私たちが自分の間違いや罪がゆるされていることをわすれないため、と考えるのがキリスト教です。

そこで、今日から始まる新しい1週間の中で起こる様々な出来事を、自分の寛容さを養うための1つ1つと考えると、いらいら、ぷりぷりではなく、わくわく、うきうきと心と態度で過ごすことができるのです。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ