礼拝の話

2023/02/20 

2月15日(水) 聖書 箴言 3章27~28節 保健体育科 森田

「あなたは運が良いですか?」

この言葉は、最近読んだ喜多川泰さんの「運転者」という本に書いてあった言葉です。

その本には「運」とは「良い」「悪い」で表現するものではなく「使う」「貯める」ものであると書かれていました。

そして、「運」を感じ取る「アンテナ」は誰しもが持っている、誰しもが等しくこの「運」を掴む力を持っているとも書かれていました。

それではなぜ運が悪いと思う出来事が起こるのか、運がないと思う瞬間があるのかというと、それは運を感じ取る「アンテナ」は、自分が上機嫌な時にしか力を発揮しない、不機嫌だと「運」が逃げていってしまう、というのが喜多川さんの「運」に対する考え方でした。

私はこの言葉を読んだとき、なんだかとても嬉しくなりました。

「運」も「良い出来事」も、偶然ではなく、自分の力で掴み取ったものだと認めてもらったような気がしたからです。

また、この貯めた「運」は、自分にとって大切な人の「良い出来事」のために発揮することもあるそうです。

つまり、自分で引き寄せた「運」によって、自分だけではなく周りの人も幸せにすることができるということです。

では、この私が引き寄せた、あなたたちが掴んだ「運」は、一体どこからやってきたのでしょうか。

人間の力を超えた、もっと大きな力をキリスト教では「神さまの力が働いた」と考えます。

つまり、私たちが掴んだ「運」は、神さまが用意してくれたものなのです。

今日の聖書箇所には、「施すべき相手に善行を拒むな あなたの手にその力があるなら。 出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな あなたが今持っているなら」とあります。

ここに出てくる友とは隣人であり、隣人とは目の前にいる人だけではなく、今なお戦争が終わらないウクライナや、地震の起きたトルコ、シリアなどの遠い国で苦しんでいる人たちも、私たちの隣人です。

もし今日、友が困っていたなら助けの手を差し伸べて、迷わず、ためらわず、行動を起こしてくださいと聖書は私たちに語りかけています。

それが友にとっての「良い出来事」になるはずだからです。

そして、自分に何か良い出来事、嬉しい出来事が起こったとき、誰かが私に「運」を使ってくれたから、ということに気づいていきたいと思います。

いつどこで、どのタイミングで「運」を使うか、自分で選ぶことはできません。

神さまが用意してくれた「運」は、自分が友のために使うことによって、まわりまわって、巡り巡って、自分と友とをつないでくれているのです。

そう考えるだけで、今日一日を一緒に過ごす友を、遠い国で生きる友を、もっと大切にできるのではないでしょうか。

常に上機嫌で「運」を引き寄せることは、簡単なことではありません。

しかし、誰かのためなら、きっと頑張れるような気がします。

今日も一日、自分の力で「運」を掴みとっていきましょう。

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