礼拝の話

2023/02/28 

2月24日(金) 聖書 マタイによる福音書 25章21節 日本キリスト改革派 山田教会 高内信嗣牧師

私の先輩である牧師先生が数年前に、美術作品の背後にある信仰や作者の意図をご紹介している「絵画と御言葉」という本を出版しました。

そこで17世紀のオランダで活躍したフェルメールが描いた「レースを編む女」という作品が紹介されていました。

フェルメールの作品は、言葉で表すことは難しいのですが、その場の情景や雰囲気を美しく伝えています。

「レースを編む女」は、柔らかな光の中で一人の娘がレース編みに熱中しています。

その繊細な手元と作業に集中している娘の表情に、絵を見る者たちも一緒に作業に参加しているかのような感覚にさせられます。

そしてこの女性の前の台の上には一冊の本が置かれています。

この本は、聖書と言われています。

聖書がクッションや糸と共に置かれているのです。

つまり、この女性は聖書の言葉に触れながら、作業をしているのです。

聖書と共に、今自分が与えられた「レースを編む」という作業に集中しているのです。

その姿は、柔らかく、美しく描かれています。

彼女の行っていることは、決してつまらないことではありません。

それは神の目から見た時、非常に大きな価値があるということに気付かされます。

清和でも、一人ひとりが聖書を持っており、このチャペルに持ってきます。

聖書のメッセージがここで語られ、それぞれの学校生活が始まります。

皆さんは聖書と共に、一日与えられた学校生活に集中するわけです。

毎週、ここで奉仕をさせていただいていることもあり、「レースを編む女」を見ながら、皆さんのお姿を思い浮かべていました。

今朝の聖書の箇所は有名な「タラントンのたとえ」の場面で、「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と言います。

これは5タラントン儲けた人に言われた言葉ですが、2タラントン儲けた人にも同じ言葉を言われたのです。

主人はいくら儲けたかを見てはいません。

「ゆだねられたものを用いたか」という点を見ておられます。

私たちがゆだねられているもの土に埋めてしまう弱い者だということを神はご存じです。

自分は1タラントンだ、と他人との比較の中で自分の境遇、自分の能力に満足できずに、それを土に埋めてしまう。

私たちの中にもどれほどのものが、自分で「価値がない」と決めつけたことによって、埋もれているのでしょうか。

フェルメールの「レースを編む女」という作品は、神が私たちに預けてくださった賜物の価値に気付かせてくれます。

私たちにもそれぞれ神に与えられているものがあります。

それはもしかしたら埋もれているかもしれないし、自分に価値がないと思っている部分かもしれません。

弱いところや嫌いな部分があって当然です。

それを私たちが、簡単に価値がないと切り捨ててはいけないということです。

そこに無限の価値があり、それが自分の中に埋まっている賜物なのです。

そこに「自分らしさ」があるのです。

そのことを信じて、今日も、聖書の言葉に導かれながら、私たちはそれぞれ与えられた使命を忠実に果たしていきたいと思います。

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