礼拝の話

2022/03/07 

2月28日(月)聖書 マタイによる福音書 4章8~10節 校長 小西二巳夫

今日は今ウクライナで起こっている悲しい出来事、許しがたい暴力について考えたいと思います。

多くの人にとって、どうしようもない出来事が起こった時に使われる言葉や考え方があります。

神はなぜ、このような暴挙、許せない行動を黙ってみておられるのか。

平和を望まれるはずの神がなぜこのような悲しい出来事をお許しになるのか。

救い主キリストはいったいどこにいるのか。

神がおられるなら、こんなことになるはずがない。

神などいないのではないか。

聖書には武器や暴力によって平和は作られない、言葉によって、話し合いによってしか作られない、守られないと書かれているが、それは理想でしかない。

いざとなったら、軍事力には軍事力で対抗するしかない。

自分たちの国も他の国から攻撃されないために強い軍事力を持たなければならない。

そして、多くの人が、ロシアがウクライナに戦争を始めた出来事を前に、いざとなったら、人間がいかに何もできないのか、無力なのかを思い知らされています。

これから世界がどうなっていくのか、あきらめに似た気持ちにさせられます。

日本に住む私たちに具体的に何ができるかと考えたら、たいしたことはできません。

何もできないと言っても言い過ぎではありません。

その私たちに、今日の聖書は語りかけます。

マタイによる福音書4章は「悪魔から誘惑を受ける」という話から始まります。

イエスは悪魔から3度甘い誘いをかけられます。

1つ目は石をパンに変える。

2つ目は神殿の上から飛び降りてもケガをしない。

3つ目、先ほど読んでもらったところには、すべての国をもらえる、との誘いです。

これらの誘惑に対して、イエスは神の言葉を大切にすること、神を試さないこと、神の代わりをやってはいけない、と答えたのです。

それを今の状況で考えるなら、先ほど歌った賛美歌の言葉のように、どんなときでも忘れてはならないことがあるということです。

何もできない私にできることがあるのです。

何もできない私だからこそやれることがあるのです。

何もできないと思う私だからこそ、やらなければならないことがあるのです。

それは、この出来事に無関心にならないで自分で考えることです。

ウクライナの子どもたちは今、学校に行きたくても行けるはずがありません。

学校そのものが破壊されてなくなっているかも知れません。

外国に逃れた子どもたちの多くは学習道具をほとんど持たないで、逃げてきたこと、そうした子どもたちの姿を思い浮かべることはできます。

今、この時も命が脅かされている人、攻撃から逃れようとしている人、絶望的になっている人、そうした弱い立場に立たされている人、激しい痛みを覚えている人の存在を忘れないことはできます。

その存在について、自分の周りの人と直接話をすることはできます。

SNSによって世界中の人とウクライナの人たち、子どもたちの痛みや悲しみを考え合うことはいくらでもできるのです。

このように考えると、何もできないとの考えが思い込みであることに気づかされます。今ここで、私にできることは、いくらでもある、そのことに気づきたいのです。

ウクライナの人たち、今受けている痛みと悲しみのために、沈黙の祈りをささげることから、新しい1週間を始めましょう。

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