礼拝の話

2022/03/07 

3月1日(火)聖書 詩編23編4節 社会科 山脇

今日3月1日は「ビキニ・デー」と呼ばれる日です。

今から68年前、1954年の3月1日、アメリカが太平洋のビキニ環礁で水爆実験を実施しました。

日本は、太平洋戦争末期に広島・長崎に原子爆弾が投下された、世界で唯一の核兵器による被爆国です。

その太平洋戦争が終結した9年後、再び核兵器による被爆者が生まれてしまったことに、日本国内では核兵器の廃絶、原水爆実験への反対を求める声が高まります。

この日は、日本だけでなく、世界各地で核兵器の廃絶を訴える集会などが行われていましたが、ここ数十年、そのような活動はあまり報じられて来なかったように思います。

それは、核兵器の使用を危惧するような状況が遠ざかったように感じていたからでしょう。

実際、21世紀に入って、核兵器を所有している国、特に大量に核兵器を所有している国が、その削減を打ち出し、少しずつではあるものの、核兵器の廃棄が実行されてきたからでした。

しかし、核兵器の使用が危惧される状況が決して遠ざかっていないという現実を、ここ数日の世界の動きから感じます。

電停を降りてすぐ、清和の入り口に「神は愛なり」という石碑があります。

毎日、この通学路にある石碑の前を通って、私たちは学校に向かいます。

最初はこの石碑に刻まれた文字を新鮮に感じた人も多いと思うのですが、日が経つにつれてどうでしょうか。

石碑に刻まれた「神は愛なり」という言葉に励まされながら学校に向かう時、何気なく通り過ぎる時、私自身その日その時によって違うのですが、その言葉は私たちがたとえ意識していなくても、神がいつも共に歩んでくれることを証明してくれているように思います。

神の愛は私たち人間には計り知れないものだと思います。

神の思いを私たちが知ることはできませんし、もし目に見える形として「これが神の愛だ」と言えるものがなかったとしても、聖書を通して神が私たちを愛し、ともに歩んでくれていることを約束してくれています。

旧約聖書の時代から、またイエス・キリストがこの世に遣わされてからも、人は何度も何度も神の教えに、イエス・キリストの教えに、時には逆らい、時には迷ってきたことが聖書には書かれています。

しかし、どんなに私たちが離れようとしても、神は手放すことなく、その独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わし、十字架にかけてまでも私たちを愛してくださいました。

それは私たちが自分の力で神につながろうとするのではなく、神の方が私たちを手放さずに、私たちに必要なものを、必要な時に与え、そして救いの道を与えてくださったということの証明です。

それが今も変わることのない神の愛ではないかと思うのです。

「神は愛なり」という言葉は短い言葉ではありますが、そこにはとても深い神の思いがあります。

聖書のいう愛は、違いのある者を受け入れるという寛容さや、自分の行いを自慢せず、傲慢さを捨て、平和を実現するものであるとコリントの信徒への手紙に記されています。

そのような神の愛が、私たちが意識しなくても、確実に注がれているということを表す言葉が「神は愛なり」という言葉なのだと思います。

ウクライナの現状を見た時、また、新型コロナウィルスの状況を考えた時、今日の賛美歌にあったように、まるで雲が覆っている憂いの時と私たちは感じてしまいそうになります。

それでも、恵みの光がやみ路を照らし、神は望みを与えられると賛美歌にはありました。

今日読んでもらった聖書箇所にも、神の恵みと支えが常にあることを教えてくれています。

私たちが気付かなくとも、神がともにいてくださり、その手で私たちを力づけてくれることを約束してくれています。

戦争や感染症といった問題だけでなく、先の見えない状況や見えにくい状況、将来への不安といったものは、皆さんも身近に感じる課題だと思います。

そのような時にも、目には見えない神の愛が、私たちにしっかり注がれていることに感謝して、今日という一日を大切に歩みたいと思います。

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