礼拝の話

2022/03/07 

3月2日(水)聖書 マタイによる福音書 22章37~39節 英語科 菅田

私は小学3年生のころから持っていた夢があります。

それはプロのサッカー選手になることでした。

「将来は有名な選手になるんだ」「将来、絶対にサッカーでごはんを食べるんだ」と思いながら毎日ボールを蹴っていて、サッカーがとても好きでした。

中学に上がった時、県内で有名なサッカーのクラブチームのセレクションを受け、合格することができました。

その時の自分は着々とプロサッカー選手への階段を上っているという感覚を持っていました。

「自分はサッカーが上手なんだ」という気持ちが強くなり、30人のメンバーの中でレギュラー争いをすることになりました。

いつしかプロサッカー選手になる夢が「Aチームにあがる」という目標になっていました。

サッカーをすることで人を蔑む気持ちやサッカーが上手な人が一番という考え方や気持ちになり、そんな気持ちを持ってしまうが自分が嫌でした。

目の前の結果ばかりを追い求めていた私は好きだったサッカーが苦痛になっていきました。

そんな自分を変えたくて高校では地元を離れ、新潟県のキリスト教の学校に行き寮生活を始めました。

寮生活では食事当番というものがありました。

みんなより少し早めに食堂へ行き、寮生全員の皿に料理を盛り、セルフサービスのお茶やみそ汁、ごはんをいれる食器を出し、食事を終えたら、食洗機を使って皿洗い、布巾の洗濯も同時進行で行います。

食事当番をしていると、食事開始の18時前から19時までの自由時間が削られます。

寮生の食事は必ず男子寮も女子寮も一緒になって食堂で摂るので、全部で160人分の食器を洗うことになります。

なんとなく気が合わない苦手な先輩と食事当番を組むことがありました。

苦手な人とも食事当番をするのは本当に嫌だなあという気持ちになりますが、当番は当番です。

自由時間を少しでも増やすためにも役割分担をして要領よく進めていかないといけません。

そのような繰り返しの中で私は距離をとる大切さに気付き始めました。

苦手な人がいても近づきすぎなければよかったのです。

普段の生活の上でもこの距離の取り方はとても重要になりました。

苦手な人だけでなく、好きな人たちとも距離を縮めすぎると関係が悪くなることがあります。

親しき中にも礼儀ありという言葉があります。

距離が近すぎるとどうしても無礼が生じてしまうものです。

この距離の取り方は人間関係だけでなく、物事に関しても同じことがいえます。

サッカーが上手な人はこの距離の取り方がとても上手です。

ボールを持っている選手に対して「ボールをとるぞ」とプレッシャーをかけます。

その時の相手との間の詰め方がうまい人がボールを獲ることができます。

また、中学時代の苦しみはサッカーそのものへの関わり方があまりにも近すぎたとわかります。

知らず知らずのうちにサッカーとの距離の取り方を間違っていました。

今日の聖書箇所では「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。

相手も自分のように、大切しないといけないと聖書は伝えております。

愛するということは常に一緒にいるということではありません。

そばで支えるだけでなく、そばで見守らないといけないこともあります。

それが愛するうえでの距離の取り方になっていくと思います。

明日から学期末試験がはじまります。

勉強をすること、学ぶことも少し休憩をして再開したり距離をとったりすることが大切だと思います。

高校生活での間の取り方、距離の取り方の学びを思い返しました。

その学びを大切に年度末の歩みを一日一日進めていきたいと思います。

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