礼拝の話

2022/02/04 

2月3日(木)聖書 コヘレトの言葉 11章9節 国語科 田野

現在、世界中の多くの人が時代の波に翻弄されています。

世界でも、「テロとの戦い」から「新型コロナウイルスとの戦い」といわれるようになりました。

このように世界が変化していく中、ふと自分の過去について振り返ってみました。

私は20代の全てを学生で過ごし、結果として30代になってから正規の職業に就くことになりました。

このような私の過去にも、今日の聖書箇所「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。」は意味があったと思わせてくれます。

「若い時に、自分の思いに従って、いろいろなことをしてみろ。」といっています。

いわば、若者に向かってのエールです。

もちろん自由奔放に、わがままに生きていいといっているわけではありません。

続きにはこうあります。

「知っておくがよい。神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れていかれると。」

「神様の創造した、この世界のルールには従って行動しなさい。」ということだろうと思います。

まとめると、「若い時に、社会のルールに従って、自分の思いを精一杯ぶつけてみろ。」ということです。

「若い時」にも、やるべきことがあるということです。

私の場合、長すぎた学生時代の中で、さまざまな「考え方」を学びました。

「考え方」を学ぶ時期は、「若い時」でなければならないと思います。

大人になると、このようなことはなかなかできません。

仕事の時間が増え、新たなものを学ぶ時間がなくなるからだけではなく、これまでの生活習慣が邪魔をして、新しいものを受け入れることができなくなってしまうからです。

そうして受け入れられるのは、今すぐ役に立つ情報だけになってしまいがちです。

たくさんの情報を手にしても、使いこなすことができなければ、意味がありません。

そこで、情報を使いこなす方法、つまり「考え方」を身に付ける必要があるのです。

ここに、読書をすること、「古典を学ぶ」ことの意味があると思います。

「古典」とは、中学校や高校の授業で扱う、日本や中国のものだけを指しているのではありません。

世界にある、現代にまで伝わった作品で、小説などの文学作品以外のものも含みます。

情報という面で見れば、古すぎて役に立ちません。

ならば読まなくてよいものなのかといえば、そうではありません。

本と向き合い、筆者と対話を重ね、「考え方」を学ぶことも、読書の目的であるからです。

「考え方」を学ぶことで、目の前にある事柄をより深く理解することができます。

これが「古典を学ぶ」ことから、「古典に学ぶ」ことに変わった瞬間だといえます。

「古典」を情報としてではなく、「考え方」のヒントとして使うということです。

変化し続ける毎日を意味あるものとして過ごすためには、自分自身の「考え方」がどうしても必要です。

自分にとって大切な「考え方」をぜひ見つけていきましょう。

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