清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/02/04
現在、世界中の多くの人が時代の波に翻弄されています。
世界でも、「テロとの戦い」から「新型コロナウイルスとの戦い」といわれるようになりました。
このように世界が変化していく中、ふと自分の過去について振り返ってみました。
私は20代の全てを学生で過ごし、結果として30代になってから正規の職業に就くことになりました。
このような私の過去にも、今日の聖書箇所「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。」は意味があったと思わせてくれます。
「若い時に、自分の思いに従って、いろいろなことをしてみろ。」といっています。
いわば、若者に向かってのエールです。
もちろん自由奔放に、わがままに生きていいといっているわけではありません。
続きにはこうあります。
「知っておくがよい。神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れていかれると。」
「神様の創造した、この世界のルールには従って行動しなさい。」ということだろうと思います。
まとめると、「若い時に、社会のルールに従って、自分の思いを精一杯ぶつけてみろ。」ということです。
「若い時」にも、やるべきことがあるということです。
私の場合、長すぎた学生時代の中で、さまざまな「考え方」を学びました。
「考え方」を学ぶ時期は、「若い時」でなければならないと思います。
大人になると、このようなことはなかなかできません。
仕事の時間が増え、新たなものを学ぶ時間がなくなるからだけではなく、これまでの生活習慣が邪魔をして、新しいものを受け入れることができなくなってしまうからです。
そうして受け入れられるのは、今すぐ役に立つ情報だけになってしまいがちです。
たくさんの情報を手にしても、使いこなすことができなければ、意味がありません。
そこで、情報を使いこなす方法、つまり「考え方」を身に付ける必要があるのです。
ここに、読書をすること、「古典を学ぶ」ことの意味があると思います。
「古典」とは、中学校や高校の授業で扱う、日本や中国のものだけを指しているのではありません。
世界にある、現代にまで伝わった作品で、小説などの文学作品以外のものも含みます。
情報という面で見れば、古すぎて役に立ちません。
ならば読まなくてよいものなのかといえば、そうではありません。
本と向き合い、筆者と対話を重ね、「考え方」を学ぶことも、読書の目的であるからです。
「考え方」を学ぶことで、目の前にある事柄をより深く理解することができます。
これが「古典を学ぶ」ことから、「古典に学ぶ」ことに変わった瞬間だといえます。
「古典」を情報としてではなく、「考え方」のヒントとして使うということです。
変化し続ける毎日を意味あるものとして過ごすためには、自分自身の「考え方」がどうしても必要です。
自分にとって大切な「考え方」をぜひ見つけていきましょう。