清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/03/11
キリスト教の暦には、大切な記念日がいくつかあります。
クリスマスに並んで有名なのが、復活祭(イースター)です。
これは、十字架にかかって死なれたイエス・キリストが3日目に死からよみがえられ、「死」を滅ぼしてくださったことを記念してお祝いする日です。
今年は4月4日の日曜日がイースターになります。
イースターの前日までの4週間は、受難節(レント)と言って、キリストの十字架に至るまでの苦難の道を思い起こす特別な期間です。
私には決して忘れることのできないイースターの思い出があります。
アメリカにいた頃、近くの教会が大きな礼拝堂で、壇上をまるで劇場のように飾って、イエス・キリストの生涯の物語をオペラ風にやっていて、実にリアルで、一気に話の中へと引き込まれていきました。
最も重要な見せ場に入り、辺りが暗くなり、シーンと静まり、その教会の牧師にスポットライトが当たるとキリストの受難がどのようなものであったか語り始めました。
そして、次のように言われるのです。
「なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのだろう。」
「なぜ人々はピラトの前で『バラバを釈放せよ!』と叫んだのだろう。」
「なぜ罪のないイエス・キリストを誰も助けようとしなかったのだろう。」
それらの言葉を耳にしたとき、その場に居合わせた当時の人々に対して、心から怒りと憎しみを覚えました。
すると、その牧師が続けました。
「ある人は言います。『あれはユダヤ人がいけないのだ。自分たちが神の戒めに背いているのをイエス・キリストに指摘されたから、自分達を正当化するために殺したのだ』と。
またある人は言います。『あれはローマ人がいけないのだ。残忍で悪に満ちた彼らが、人の命をもてあそんだのだ』と。
しかし、本当は、ユダヤ人でも、ローマ人でもありません。
イエス・キリストを殺したのは、『あなた』です。
イエス・キリストは、『あなた』が犯した大きな罪から小さな罪に至るまで、すべての罪を償うために死んでくださったのです。なぜでしょう。
それは、イエス・キリストが『あなた』を深く愛しておられるからです。」
そのように言われたとき、あまりの驚きで、声が出ませんでした。
その時、あの惨たらしいイエス・キリストの十字架の死は、まさに私のためであったということが初めて理解できました。
第一に、イエス・キリストは、他ならぬこの私を罪の暗闇から救い出すために、私の罪を償うために、身代わりとして十字架にかかって死んで下さったということ。
第二に、私は自分の罪を悔い、イエス・キリストを自分の救い主と信じて心に受け入れるならば、自分のすべての罪が赦され、永遠の命が与えられ、神と共に喜びに満ちた人生を歩むことができる、ということが、私の中で生まれて初めて意味を成しました。
それから程なくして、ある聖書の御言葉に出会いました。
それが、先程のローマの信徒への手紙5章7節8節です。
キリストが私のために死なれた、ということは、人間の日常的な経験から考えても、実に驚くべきことです。
他人のために自分の命を捨てるということは、人間の現実においては大変難しいことです。
しかし、イエス・キリストはどうだったでしょうか。
私たちが神を無視し、あるいは「神に敵対していたとき」に、神は「御子キリストの死によって私たちをご自身と和解させられた」のです。
これこそが、イエス・キリストの十字架の死の意味です。
神の私たちに対する愛は絶大です。
それはイエス・キリストの十字架において、具体的に、現実的に現わされました。
イエス・キリストの十字架こそ、神の愛の姿であり、私たちの生きる希望です。