清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/03/15
今日は3月11日です。
当時私は、東日本大震災の当時は茨城県で大学生をしていました。
この日は、高校時代の友人に会うために千葉県へ向かっていました。
電車を乗り換えるために電車から出て、ホームを歩いていると、立っていることはできても、歩くのは難しいほどの揺れを感じました。
いったん揺れが収まると、周りの人たちが出口に向かって歩き出しました。
今考えると、思いのほか冷静だったように思います。
それは駅員さんが、「皆さん落ち着いてください。出口はあちらです。焦らずにお進みください。」と迅速に対応してくれたからだと思います。
みんな、携帯で連絡を取ろうとしますが、なかなかつながりません。
私は友人の家に行くことをあきらめ、避難できる場所へ行こうと駅を後にしました。
3時間ほど歩いたころ、ずっとつながらなかった携帯の着信が鳴りました。
それは、新潟の実家に住む姉からでした。
姉が電話で話しながら、避難所を調べてくれて、無事、避難所に到着する事ができました。
避難所につくと、子どもからお年寄りまでたくさんの人がホールに避難していました。
その施設のテレビで、初めて震源地が東北地方であること、大きな津波が押し寄せ多くの被害が出ているという事を知りました。
みんな初めて見る光景に、ただただ呆然とするしかなかったように思います。
夜になり、その施設に備えていた毛布や乾パンなどの食料の支給が始まりました。
その時、支給する場所にみんなが殺到するかと思ったら、違いました。
子どもやお年寄りの方を先にとお互いに声を掛け合い、動けないお年寄りや、子どもを連れた母親には届けるというように、避難所全体がそのような雰囲気になっていました。
あの時、あの場所にいた人は誰一人「自分さえよければ」という想いの人はいなかったように思います。
私は次の日に、友人の家に行くことができ、避難所での生活は1日だけでした。
震災時、多くの避難所ではもちろんトラブルも多くあったことも事実です。
しかし、それだけではなく人と人とが支え合い、助け合う姿も多く報道されました。
長い時間、列に並んで、やっとパン1つをもらえるという状況であるのに、自分のことは我慢して、他の人に分け与える人。
まだ寒い3月の東北で、毛布を分け与える人。
家族の安否もわからないのに、避難所の人たちのために運営する人。
津波で荒れてしまった学校の校舎を掃除したり、避難所の運営を手伝ったりする中高生。
そこにいる人たちは、私たちが想像もできない困難や悲しみを抱えているにもかかわらず、「誰かのために」と動いている人がとても多いように感じました。
本当に困難な状況に陥った時、「自分さえよければ」ではなく、他者を思いやる「心」を私たちは与えられているのだと思います。
そして、その思いやりの「心」、支え合う「心」は、人々へバトンのようにつながっていき、困難な中から希望を生み出し、活力へと変化するのだと思います。
避難所での生活は、そのような人々の「心」から成り立っていたのだと思います。
これは、避難所生活だけではないと思います。
これは日本国内にとどまらず、多くの国が支援の手を差しのべてくれた事から、言葉や文化が違っていても、悲しみの中にいる人や困難の中にいる人を思いやる心は同じなのだと思います。
そして、私たち一人ひとりにも、その「心」は神さまによって与えられています。
今自分が置かれている場所、家族やクラス、地域の中で、精一杯「心」を尽くして生活していきたいと思います。
私たちは、毎日、この東日本大震災のことを覚えて、心にとめて生活することは難しいかもしれません。
しかし、今日という日は、東日本大震災で失われた命、大切な人を亡くされ悲しみの中にいる方々、未だ行方の分からない方々、大好きな土地で今もなお生活をすることができない方々、避難生活を今もなお送る多くの方々、そして、復興に向けて懸命に働いている方々を覚えて、お祈りしたいと思います。