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2022/04/13 

4月8日(金) 1学期始業礼拝 聖書 コヘレトの言葉 11章8~10節 校長 小西二巳夫

宗教改革のきっかけを作ったマルチン・ルターの言葉に、「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」というのがあります。

意味は「たとえいろいろなことがあったとしても、今日という一日を大切に生きる。自分がやるべきこと、するべきことはきちんとしよう」です。

ルターの言葉と結びつく聖書の言葉、それがコヘレトの言葉です。

6節の「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」で始まる言葉は、8節の「何が来ようとすべて空しい」で終わっています。

コヘレトが「空しい」で言いたいのは、何をしてムダだから、あきらめなさい、ではないはずです。

逆のことです。

コヘレトの言葉の「空しい」が「束の間」と訳すことができるからです。

「束の間」というのは「ほんの少しの時間」「あっという間」になります。

それを8節に当てはめると、長生きしているように見えても、そして幸せな日が続いているように思えても、それは束の間あっという間のこととなります。

逆に辛く不幸な毎日ばかりが続いているように思えても、それもまた束の間の出来事、ほんのちょっとの時間にしか過ぎない、というのです。

そのほんのちょっとの時間を空しく過ごすのか、それとも大切に過ごすのかと、あなたはどうしますかと、コヘレトは一人ひとりに問いかけているのです。

それはそのまま、清和で学校生活を送る一人ひとりへの問いかけです。

清和の中学校生活は3年、高校生活も3年です。

長いようですが、コヘレト的に言えば「束の間の3年」「アッと言う間の3年」です。

コヘレトは、一人ひとりに束の間の時間をどう過ごすのかと問いかけながら、何が答えかをはっきり言っています。

それが6節の言葉です。

「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」。

コヘレトは少しの時間だからこそ、一日一日に大切に過ごしなさいと言うのです。

清和でいうなら、毎日の学校生活にきちんと取り組みましょう、となります。

それが自分にとって一番手応えを感じられ時間になるからです。

毎日の生活の中で手応えを感じられることほど、自分を元気にそして幸せにしてくれることはありません。

それでは、手応えを感じられる一年を目指して一日一日大切に過ごしましょう。

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