礼拝の話

2023/04/18 

4月13日(木) 聖書 マタイによる福音書 28章5~8節 校長 小西二巳夫

南太平洋にクリスマス島とイースター島と呼ばれている島があります。

もともとの名前は違いますが、2つの島がそう呼ばれるのは、クリスマスとイースターの時期に島を見つけたヨーロッパの人そのような名前を付けたからです。

クリスマスとイースターはキリスト教の大きなお祭りです。

クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日、イースターはイエス・キリストが十字架に架けられて死んで3日目に復活したことを記念する日です。

キリスト教というとクリスマスをすぐに思い浮かべる人が多くいます。

けれどキリスト教の始まりはクリスマスではなくイースターです。

イエスについていけば救われ幸せになれると信じていた人たちは、イエスが十字架に架けられて死んでしまったことで、失望しました。

ところが、3日目にイエスが復活したことを知りました。

そこで考えたのが、何も悪いことをしていないイエスが、なぜ十字架にかかって死んだのか、その理由でした。

イエスが十字架の上で言った最後の言葉は34節の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。

イエスが十字架の上で苦しんでいるのを見ていた人たちは、イエスが苦しさのあまり、神に自分を見捨てないで救ってほしいと助けを求めて叫んだと思いました。

ところがそうではなかったのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は旧約聖書詩編22編に書かれている言葉です。

そして詩編22編には神が一人の人を通してすべての人を救うことが書かれています。

そうするとイエスが十字架で死んだのは、多くの人を救うために、身代わりになるためだったいうことになるのです。

イエス・キリストが十字架に架けられた絵や彫刻というのがたくさんあります。

その絵や彫刻を見る時に、なぜイエスが十字架にかかったのかを知らない人には、イエスが情けない格好で十字架に掛けられているとしか見えません。

しかし、イエスがなぜ十字架に掛けられたのかを知った人には、イエスが重い十字架を背負っているように見えるのです。

その十字架は本当なら、私たち一人ひとりが背負わなければならないものであり、それをイエスが代わりの背負ってくれている、救ってくれている、生かしてくれていると考えるのがキリスト教です。

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