礼拝の話

2023/04/18 

4月17日(月) 聖書 ヨハネによる福音書 15章5節 社会科 山脇

今日読んでもらった聖書の箇所にはぶどうの木の話が記されています。

ぶどうの枝そのものに力があるから実がなるのではなく、あくまで木につながっているから実を結ぶことができる、と書かれています。

春休み、高知城周辺を散歩しました。

その時期は桜が満開を迎え、お花見をするには絶好の時期でしたので、公園のあちこちでお花見をする人を見かけました。

お弁当を食べ終わった後、城西公園からお城の北側の「すべり山」を見ながら、高知城をぐるっと一周して、高知城の南側の「丸ノ内緑地」の変化に驚きました。

以前はたくさんの木に覆われていた丸ノ内緑地ですが、その面影は全くなく、芝生の広場が広がっていたのです。

新しくなった丸ノ内緑地を歩きながら、ふと目線を上げた時に目に入って来たのが緑地に残された数本の木々です。

見晴らしを良くして景観を守る、市民の憩いの場を作る、そのためにもともとあった木が半分に減った丸ノ内緑地ですが、残った木々も大胆に枝打ちがされていました。

木の半分から上の枝が思いっきり切り落とされて、大きな木がまさに「丸裸」になっているのです。

「丸裸」になっている木が何とも寂しく見え、どれだけ芝生がきれいでも、これでは悲しいなぁ、と思いつつ「丸裸」にされた木を良く見てみると、落とされた枝の根元から新しい枝が伸びてきていました。

その枝はまだ細いながらも上へと伸び、小さい葉っぱをいくつもつけているのです。

改めて「丸裸」になった木々をしっかり見ると、あちこちに新しい枝が出ていることが分かりました。

この小さな枝が数年後には大きな枝になり、葉を生い茂らせて日陰をつくると思うと、今は異様な光景に見えるこの景観も、きっと美しいものになるのだろうと思います。

その若い、新しい枝を見た時、今日の聖書箇所が思い出されました。

枝そのものに力があるわけではない、と聖書は言います。

落とされた枝からは新しい枝が生えてくることはありません。

その木、もっといえば、根っこがしっかりしているから、新しい枝が生えてくるのです。

枝が伸びていくには、木につながっていないと成長していきません。

聖書では、私たちは木につながっている枝である、と言います。

枝そのものに力があるのではなく、枝は木につながり、木が根っこから吸い上げる栄養によって枝は伸び、葉をつけ、実を結ぶことができると聖書は言います。

では枝である私たちに栄養を与え、育ててくれるのは何でしょうか。

聖書ではそれを神であり、イエス・キリストであると教えています。

神は私たちに必要なものを与えてくださり、私たちの歩みを導いてくれています。

神は時に私たちに試練をも与えますが、決して耐えられないような試練を与えることはなく、試練と同時に逃れる道をも備えてくださると、聖書は約束しています。

その神から離れては、人は生きていくことができないと聖書は語ります。

それは神が、枝である私たちに、日々必要な栄養を与えてくれているからです。

その目には見えない神の恵みが、今日も私たちに注がれていることに心を留めたいと思います。

そしてイエス・キリストが、今日も私たちとともに歩んでくださり、私たちの歩みを支えてくれていることに感謝したいと思います。

私たちの今日の歩みのうえに、神の恵みが注がれていること、イエス・キリストの支えがあることに感謝したいと思います。

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