礼拝の話

2022/04/21 

4月19日(火) 聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章23節 社会科 山脇

私の家は、西側の壁に沿ってサザンカの木とともに、バラの木が植えられています。

家の西側を取り囲むように植えられたバラは、母親が好きで植えたものです。

母親が亡くなった後も、見様見真似でバラのお世話をしているのですが、バラ好きの人から見れば、「それじゃダメだよ」という枝の剪定、バラのお世話に見えるかもしれません。

最低限のお世話しかできていませんが、今、私の家のバラは満開を迎えています。

先日、満開を迎えようとしていた黄色と白のバラを眺めていると、ご近所のお婆さんが同じようにバラを眺めながら近づいてきました。

「こんにちは」とお互いに挨拶をしたあと、そのお婆さんがバラを眺めながら笑顔で一言、「毎年嬉しいね」とつぶやかれました。

そのお婆さんのつぶやいた一言、「嬉しいね」という言葉は、私にとって意外な一言でした。

「綺麗に咲いたね」や「満開になったね」だったら、意外とも何とも思わなかったでしょう。でもそのお婆さんの一言は、花の咲き具合や色を見て感じた印象ではなく、「嬉しいね」と

いうお婆さんの気持ちだったのです。

お婆さんのその一言は、意外であったと同時に、私にも同じように「嬉しい」という気持ちを与えてくれるものでした。

バラは棘があるので、枝打ちをする時にあちこち傷ができます。

夏場も暑い中、長袖を着て伸びた枝の剪定をしないといけないので大変ですが、何気なく通りかかったお婆さんが「嬉しいね」と言ってくれたことで、うちのバラは色んな人に楽しまれているのだと気付きました。

自分の家だけのものだと思っていた我が家のバラは、実は、そこを通る人にほんの少しだけ幸せな気持ちを与えているのかもしれないと考えると、面倒くさいバラのお世話も、何だかやりがいのあるものに思えます。

今日読んだ聖書箇所には、あなたがたは神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた、とありました。

聖書に記されている神の言葉、イエス・キリストの言葉は、その当時の人々だけでなく、今を生きる私たちにも「生きた言葉」として語りかけています。

その言葉は、「朽ちる種」つまり古くなって滅びてしまうものではなく、「朽ちない種」として永遠に変わることがない言葉として、私たちを時に励まし、時に慰め、希望を与えてくれるものであることを教えてくれています。

私たちが普段かわす言葉には、自分が思う以上に力があるのだと思います。

お婆さんの一言で私が嬉しい気持ちになったように、私たちは何気ない一言に励まされ、慰められ、希望を与えられているのです。

聖書は、私たちに言葉の大切さを随所に教えてくれます。

新しい年度の歩みが始まった今、私たちはどのような言葉を発し、相手の言葉をどのように受け止めていくのでしょうか。

そのことを考えた時、朝の「おはよう」という挨拶や、友だちとの会話の中で自然と「ありがとう」という言葉が生まれれば、私たちは一日一日を幸せな気持ちで過ごせるのではないかと思うのです。

自分の想いを大切にしつつ、同時に周りの人のことを想って、何気ない一言、友だちとかわす言葉を大切にしていきたいと思います。

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