礼拝の話

2021/04/09 

4月8日(木) 1学期始業礼拝 聖書 ルカによる福音書 22章60~62節 校長 小西二巳夫

私が高3になった最初の英語の授業の時、先生は黙って黒板に英語を書きました。

“Live in the present.”「今を生きる」。

そして、話し始めました。

そのお話の中で、「人間にとって生きるというのは考えることだ」という言葉を覚えています。

先生は、教えられたことを覚えるだけでなく、自分で考え続けることの大切さを教えたかったのだと思います。

この「今を生きる」がそのままタイトルになった映画があります。

ある学校に卒業生であるキーティングが国語の講師としてやってきました。

型破りな彼に生徒は最初戸惑いますが、彼を慕う生徒を中心に詩をつくる会が結成されました。

いろいろな出来事の中で、学校は責任をキーティングに負わせようとし、生徒にも圧力をかけます。

生徒たちは頑張りましたが、そのうちの一人がとうとう圧力に負け、すべての責任をキーティングが追うことになります。

責任を追及される中で、彼は一切の弁解をせず、学校を辞める決心をし、静かに学校を去ろうとしました。

クラスでの別れのあいさつの時も、一切恨みがましいことは言わず、教室をあとにしようとしました。

その背中はある意味、自分を裏切ったことをすべてゆるしているかのように、やさしさにあふれていました。

キーティングは人としてどのような生き方をするべきかを言葉だけではなく、背中で教える人でした。

彼の背中と振り返ったときの優しいまなざしは、聖書の中のイエスそのものです。

61節「主は振り向いてペトロをみつめられた」。

イエスは弟子のイスカリオテのユダの裏切りによって、無実の罪で逮捕されます。

そばにいた弟子のペトロは怖くて何もできず、連行されていくイエスの後を、少し離れておろおろとついていくだけでした。

そして周りの人たちから「お前はイエスの仲間だろう」といわれ、怖くなって思わず違うと否定したのです。

そのペトロの前を、裁判にかけられるために連行されていくイエスの背中が見えました。

その背中は怒りではなく、ゆるしの表情をしていました。

だから、ペトロは激しく泣いたのです。

人が心から泣けるのは、自分がゆるされている、信頼されていると感じる時です。

ペトロはイエスの背中を見ることで、人間らしく生きようと決心します。

イエスの背中を見つめながら、自分自身と向き合うことができる人、自分で考えることのできる人になったのです。

毎朝のチャペル礼拝は高3が一番前に座り、その次に高2、そして新しく高1となる人たちがその後ろに座り、さらにその後ろに中学生が座ります。

それは、新しく入学してくる人たちに、上の学年の人たちの背中を見ながら、育っていってほしい、成長してほしいと願うからです。

同時にそれは、3年生、2年生に信頼するからです。

新しく始まる1年、信頼に背中で応える姿勢で礼拝に臨んでほしいのです。

清和に入学してくる人たちに背中を見せることで、語ることのできる人になってほしいのです。

それは礼拝だけに留まらず、学校でのあらゆる場面に通じます。

清和に学んできたみなさんには、自分の背中を意識した生活を送ってほしいと思います。

ペトロはイエスの背中を見つめることによって、自分としっかり向き合うことができることを教えてくれました。

そのペトロによって、多くの人たちが成長しました。

私たちもぜひそういう存在、自分の背中にプライドが持てる自分になりたいものです。

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