礼拝の話

2023/05/16 

5月11日(木) 聖書 マタイによる福音書 20章29~34節 校長 小西二巳夫

「サンタクロースはほんとうにいるの」という絵本があります。

この絵本の作者は暉峻淑子(てるおかいつこ)という人です。

暉峻さんの本職は絵本作家ではなく、経済学者です。

暉峻さんがテーマにしているのは人間にとって「本当の意味での豊かさ」とは何かということです。

暉峻さんは80歳を超えても、中東アジアやアフリカの難民救済活動にも積極的に関わっておられました。

誰もが憧れを持つ暉峻さんですが「豊かさへ もう一つの道」という本の中で、自分の恥ずかしい部分について書かれています。

イラク戦争という年から何年まで続いた戦争で傷ついた人たちへの救援活動をするために現地に出かけた時のことです。

通訳のために若いエジプト人を雇いましたが、通訳料として相場の半分でよいと言われ、暉峻さんは相場の半分の通訳料に助かった、儲かったと思いました。

彼の夢はお金をためて大学に入ることでした。

ところが彼はインタビュー先で病気の人や食べ物がなくて困っている人たちと出会うと、もらった通訳料を惜しげもなくその人たちに渡すのです。

暉峻さんは彼の行動に納得できませんでした。

そこで通訳料を大学の学費として貯めないで、なぜ貧しい人にあげるのかと尋ねました。

すると彼は「自分は喜捨すること、つまり他者のために、特に弱い人や貧しい人のために自分のものを、喜んで捨てることが、一番の喜びだ」と答えたのです。

暉峻さんはこの一言に頭をガンと殴られたような気持ちになりました。

同時に自分の考えや行動がたいへん恥ずかしいことであり、豊かさについて真剣に考えてきたつもりの自分が浅はかであったかを思い知らされたというのです。

エジプト人の通訳が自分より困っている人に6000円を渡すのを不満に思う前に、相場の半分の通訳料だということを安いと喜ぶのではなく、きちんと12000円払ったならば、それを彼らも分けることができて、みんなが豊かになれたのにと思い知らされたのです。

そうできなかった自分がいかに自己中心で情けないかに気づかされたのです。

エジプト人の通訳の考えと行動は、今日の場面のイエスのそれに重なります。

今日の聖書には目の不自由な人たちとイエスが登場します。

目の不自由な人とイエスはどちらも「憐れ」という言葉を使っています。

ただ目の不自由な人とイエスが使う「憐れ」には大きな違いがありました。

それぞれの「憐れ」を漢字にして見比べてみると違いがよくわかります。

目の不自由な人たちが使った「あわれ」は「憐憫」です。

意味は何かを見て「ああ かわいそうだ」と直線的な感情を表現する言葉です。

どこから見ているかといえば上から目線です。

憐憫は力の強く優位な立場にある人が、力の弱いものに対して優越感をもちながら、かわいそうだから助けてあげましょう、という感覚です。

相手のためではなく、自己満足が目的ということができます。

それに対して、「惻隠」という言葉があります。

意味は同じ「憐れむ」ですが、惻隠は憐憫とは違い、相手が持っているさまざまな事情を推測することから始まります。

惻隠はその人の力では何ともできない事情を理解したり、気遣ったりする中から、心が深く動かされるような感情です。

共感することです。

憐憫は場面が変わるとすぐに忘れたり、気持ちが変わったりするのが特徴ですが、惻隠は、相手を思いやる気持ちが変わることがありません。

その人自身の心をより成熟させる、人間的に成長させることになります。

イエスは目の不自由な人に対して、惻隠の情をもたれたということです。

私たちが豊かに生きたいと考えるなら、自分の中に育てたいのが、この惻隠の情です。

暉峻さんの通訳をしてくれたエジプト人は惻隠の情を持つ人だったのです。

清和の教育の目的の1つは、キリスト教触れ学ぶことで、そして何よりイエスに出会うことによって一人ひとりが惻隠の情を持てるようになることです。

目指すは惻隠です。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ