礼拝の話

2022/07/04 

6月22日(水) 聖書 イザヤ書 29章11~12節 国語科 田野

 

「読書」について、さまざまな人が語り「読書など意味がない」という人はいません。さまざまな理由から読書の大切さを私たちに訴えかけてきます。少し視点を変えて、書物について考えてみます。

書物は水、火、虫、ほこりに弱く保存はとても面倒です。とにかく保存状態をよくすることが必要で、管理にとても手間がかかります。それでも書物を大切に扱おうとする人がいます。書物から得られるものが多いと考えているからでしょう。

書物は、その内容以外のことに、目を向けさせてくれることが大きいように感じます。自分の使っている言葉そのものについて考えさせる機会や書物ができるまでの長い過程を思い起こさせてもくれます。書物には作者、筆者はもちろんのこと、編集者、装丁者などたくさんの人が関わって、やっと一冊の書物が出来上がります。

現代では、書物や文書は電子データとなり、どこにいても閲覧ができるものになった部分もある一方で、電子データであるがゆえに、都合の悪い部分がすぐに書き換えられたり、文書そのものが消去されたりしてしまう場合があります。

ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』の世界では、一般人は声でメモをとるようになっています。文字を使わない、ということです。「声でメモをとる」ということは、何か重大なことが起こった時の証拠としては不確かなものになるのではないでしょうか。

「この声のメモは、あなたの記憶違いではないですか」と誰かにこう言われたときに、どのように答えるのでしょうか。さすがに現代では「すべてが嘘」といったようなことはないだろうと思いますが、人間には都合のいいものしか見えないのです。都合の悪いものは、うまく修正、消失が「当たり前」なのかもしれません。

では、書物や文書の内容の正しさ、信用度を、どう判断していけばいいでしょうか。「あの人が書いたものだから正しい」「この人が書いたから間違っている」というような判断をしていると、どこかで騙されてしまいます。歴史の荒波の中、さまざまな人の力によって、大切にされてきた書物や文書にあるそれぞれの文章と向き合い、読み解き、判断していくことが、今までも、そしてこれからも大切になります。

何も考えていないところに、何かが手に入るはずはありません。何かを手に入れるためには、手段や方法があるのです。

手段や方法に関わるものが「読解力」や「判断力」です。この力が、「封じられた書物」に光を与えるものになると思います。

 

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