清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/06/10
先日、車の運転をしながらラジオを聞いている時に「笠地蔵」の話しが出てきました。
「笠地蔵」が日本だけでなく海外でも素敵な話として評価されているということを知りました。
話の舞台はある雪深い山奥の村。
その村に貧しいおじいさんとおばあさんが暮らしていました。
もうすぐ新しい年を迎えようとしている年の瀬、新年を迎えるためのお餅を買うお金もなく、どうしたものかとおじいさんとおばあさんは考えました。
お餅を買って新年を迎えたいと思ったおじいさんは、こつこつ編んできた笠を売ろうと考え、背負えるだけ背負って町に向かいますが、残念ながら町では笠は全く売れず、おじいさんはしょんぼりしたまま村に帰ることになりました。
村への帰り道、地蔵峠を越える時に、おじいさんの目には来た時を同じように頭に雪が積もったお地蔵さんが見えてきます。
おじいさんは、お地蔵さんの雪をはらうと、売れ残った笠をお地蔵さんの頭にかぶせて家へと帰宅しました。
町に行って笠を売ろうとしたけど全く売れなかったこと、帰り道にお地蔵さんの頭に笠をかけてきたことをおばあさんに伝えると、おばあさんは「それは良いことをなさいましたね」とおじいさんに答えます。
その夜、おじいさんとおばあさんが寝ていると、外で何やら物音がします。
慌てて外へ出てみると、お餅や野菜などがたくさん置かれていました。
驚いたおじいさんとおばあさんが辺りを見渡すと、地蔵峠のお地蔵さんが去っていく姿が見えました。
おじいさんとおばあさんは、無事にお正月を迎えることができました、というお話しです。
ラジオ番組では、おじいさんの心の変化と、おばあさんがおじいさんにかけた一言が、海外でもとても素敵な話として評価されているとのことでした。
帰りにお地蔵さんの頭に笠をかけたのは、単に売れ残ったからとも言えそうですが、おじいさんの心情を考えてみたいと思います。
町に笠を売りに行くおじいさんは、笠を売ってお正月用のお餅を買う、という目的がありました。
しかし、笠が全く売れず、村へと戻るおじいさんは目的を果たすことができなかった失望感や脱力感に見舞われていたことでしょう。
町に向かう時と村へ帰る時のおじいさんの心情は180度違っていたのではないでしょうか。
帰り道で頭に雪をかぶったお地蔵さんを見た時、おじいさんは笠が売れなかった自分と雪をかぶったお地蔵さんを重ね合わせたのではないかと思うのです。
単に売れ残ったから笠をかけたわけではなく、そのお地蔵さんの寒そうな姿に、哀れな姿に自分自身を重ねたのではないでしょうか。
おじいさんは、そのような想いでお地蔵さんの頭の雪をはらい、笠をかけてあげたのだと思うのです。
そして笠が売れなかったこと、売れなかった笠をお地蔵さんにかけてきたことを伝えたおじいさんに対し、おばあさんは「それは良いことをなさいました」と言いました。
目的が達成できず、しかも売れ残った笠を持ち帰らなかったおじいさんを、しかしおばあさんは決してとがめませんでした。
おばあさんも笠が売れずに、お餅が買えなかったことは残念だと思ったことでしょう。
しかし、その悔しい想い、残念な想いをおばあさん以上に抱いているのはおじいさんであるということを、おばあさんは感じていたのでしょう。
だから、とがめたり責めたりすることはせず、おじいさんの気持ちを察したうえで、「良いことをなさいました」と、励ましたのではないかと思うのです。
このおじいさんの寂しい心をお地蔵さんは感じ取ったのでしょう。
このおばあさんの相手を思いやる気持ちをお地蔵さんは感じ取ったのでしょう。
2人の優しさに対して、お地蔵さんはお餅や野菜を抱えて、2人の家に向かったのだと想像します。
笠地蔵が海外でも素敵な物語として評価されているのは、このおじいさんとおばあさんの優しさにあるのでしょう。
今日の聖書箇所には、「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。」とありました。
有り余るものを手にしていても、それでも満足できずに他の人をねたみ、争いが絶えないのであれば、私たちは心を落ち着かせて生活することはできないでしょう。
乾いたパンの一かけらを奪い合うのではなく、それをお互いに分け合い、励まし合うことができれば、きっと暖かい気持ちで生活することができるでしょう。
本当に大切なものは、大げさなものではなく、きらびやかなものでもなく、本当にささやかなもの、身近にある優しさなのかもしれないと、今日の聖書箇所と笠地蔵から感じました。
日ごろの生活のなかで、そのような優しい気遣いと言葉が増えていけば、私たちも気持ち良く一日を過ごしていけるのだと思います。