礼拝の話

2023/10/06 

9月25日(月) 聖書 マルコによる福音書 15章33~39節 校長 小西二巳夫

先々週の土曜日「うちらの青春!オリンピック」とネーミングされた体育大会がありました。

各種目のネーミングも相当考えたことがよくわかります。

同じ競技でもネーミングの付け方によってワクワク感が大きく違ってきます。

取り組み方、気合の入れ方も変わってきます。

これらのネーミングからも感じるのですが、今年の体育大会を一言で表現すると「すべてに本気で取り組んだ時間だった」です。

本気で取り組んだことの1つに、教員Vs青組Vs黄組のリレーがありました。

1チーム13人が走りました。

教員の走る順番はできるだけ学年に合わせ、教員には例年ハンディが付けられます。

ハンディはふつう年輩者の負担を軽くするために、若い人たちに何かを負わせます。

教員チームのハンディは何か、それは70歳を超えた私がアンカーで走ることです。

しかしそれでは不十分ということで、毎年前年度の実績から考えて、教員チームに負わせるハンディが決められます。

今年も大いに盛り上がった教員Vs青組Vs黄組のリレーですが、結果について、今年もそうでしたが、保護者の方から意見や感想をいただくことになります。

生徒相手のリレーだから、もう少し手加減や配慮があってもいいのではないか。ちょっと大人げないと思う、という意見の一方で、教師が本気で走る姿がおもしろかったとの肯定的な感想もあります。

今日の聖書はイエスが十字架に掛けられて殺される場面です。

人間は自分たちが持つ弱さのために、他者の体と心傷つけます。

自分の正義を主張するために争い戦争を始めます。

それによって多くの命を奪う、といった安心や平和とは程遠い状況をどんどん作り出しています。

聖書は人間の弱さから出てくる言葉や行動を「罪」と呼びます。

その罪から人間を解放するためには、その罪をイエスが十字架にかかって死ぬ以外にはないと考えるのが聖書、キリスト教です。

イエスの時代の十字架の刑の目的はできるだけ時間をかけて苦しませることでした。

処刑の場面に立ち会っていたのが百人隊長でした。

立場上、何かが起これば、それは百人隊長の責任になります。

ですから百人隊長は十字架による処刑が無事に終わるように人一倍警戒していました。

十字架の上で苦しむイエスの様子もずっと見ていたはずです。

その百人隊長が、イエスが亡くなった時に思わず漏らした言葉が39節です。

「この人は本当に神の子であった」です。

これはイエスに敵対する勢力側にいる人が、自分はイエスを神の子と信じた、イエスによって救われることを信じた、という信仰を告白したことなのです。

百人隊長はイエスが十字架の上で見せた本気に触れることによって、イエスが救い主キリストであると信じざるを得なくなったのです。

十字架の周りいた群衆も、百人隊長のこの言葉によって、イエスが救い主キリストであり、本気で罪から人を救おうとされていることがあらためてわかったのです

教員Vs青組Vs黄組のリレーで教師が毎年真剣に走る理由もそこにあります。

教員が本気で走ることによって、清和に学ぶ自分が今何を考え、どのような学校生活をすればいいのかを、本気で考えられるようになると信じているからです。

生徒に合わせて走るというのは一見やさしく配慮していると見えます。

しかしそれは生徒を心から信じていないことの裏返しでもあるのです。

それでは生徒一人ひとりが持っている能力やエネルギーを引き出すことはできません。

清和の教員がリレーで、全力疾走するのは、日頃の教育に全力を尽くしているのを見える形で表すためです。

つまりこれは教員が教育に本気で取り組むとの宣言でもあるのです。

イエスの十字架は、どのような時にも、人を見捨てることはない、必ず何かの形方法で人を救うとの神の本気を伝えるためでした。

私たちには、本気に触れることによってだけ、わかることがあります。

本気になった時にだけ引き出される力、エネルギーがあります。

そのことを一人ひとりがあらためて知り、体感できたのが今年の体育大会でした。

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