清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2020/06/15
今日は学校記念日礼拝です。
学校の歴史を振り返るということは、学校としての歴史を振り返ることだけではなく、そこに集っていた生徒、教職員、ここにつながるお一人お一人の姿を振り返っていくことだと思います。
清和学園で生活をされたお一人お一人は、どのようなことに支えられて歩んで行かれたのでしょうか。
そして、皆さんはこれから何に支えられて歩んで行かれるのでしょうか。
そのことをご一緒に受け止めること通して、学校記念の時を過ごしていきたいと思います。
今日の箇所に出てくる「ザアカイ」は、当時皆がとても嫌っていた仕事をしていたので、みんなからとても蔑まれていました。
自分の人生を、自信を持って歩んでいくために、周りの人たちから蔑まれないような地位や財産を手にしようと思い、彼は成功者になり、最初に思い描いていたところまで来ることができたのです。
最初に思い描いていたところまで到達してみて、ザアカイはどうだったのでしょうか。
自分の人生を確かにするものを手にしたいと思って一生懸命に歩んで、最初に思っていたところまでたどり着いたはずなのです。
けれども、結局以前とちっとも変わっていなかったのです。
周りの目は冷たく、自分も自信を持って歩むことはできなかったのです。
そのようなザアカイを捜される方、イエス様がおられました。
エリコの町で、沢山の人がイエス様を見るために集まっている中で、大勢の中のたった一人のザアカイをイエス様は探し出され「ザアカイ」と呼びかけられるのです。
ザアカイはこのイエス様に出会った時にこう言っています。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と。
これは今まで悪いことをしてきたけれど、これからは反省をして正しく生きていきますというようなことではありません。
ザアカイは財産こそが彼の人生を支える唯一のものと思っていました。
しかし、それを手放すというのです。
しかも、当時の規則で決まっていた以上に貧しい人に施し、損害を賠債すると言うのです。
これからは正しく生きますという以上に、自分の中に手の中にあるものを一杯にして人生を確かにしていく道から一歩踏み出していくということなのです。
そして、ここで発見したものに支えられてこれからの歩みを進めていきますということなのです。
ザアカイはイエス様を通して、自分の人生の姿を新しく受け取りなおしたのです。
みんなが嫌う仕事をしているとんでもない人だとみんな言い、人が思っているだけではなく、ザアカイ自身も「所詮自分なんか」と思っているのです。
しかし、イエス様はザアカイに「他の誰がどう言おうとも、あなたがどう思おうとも、あなたはアブラハムの子だ、あなたは神様の宝だ」と言われるのです。
神様は宝物と言われた以上、その人々の歩みを本当に大切に、必ず宝物らしく取り扱ってくださいます。
聖書には「生まれた時から死ぬ時まで、私はあなたを背負っていきます」という神様の言葉があります。
神様は一人の人の歩みを、そうして背負って導いていかれるのです。
もう道は見えないという絶望の時も、様々な問題が降りかかってきた時も、神様はどんな時も変わらずに背負ってくださった、支えてくださったのです。
ザアカイが人生を歩む本当の力はザアカイの手の中にあるものではなく、そのザアカイをご自分の宝物として支え導くと決めておられる神様のお心にこそありました。
そのことを発見させられて、新しくなってザアカイは歩み出していくのです。
全く違うものに支えられて歩んでいくのです。
どんなに人に蔑まれたとしても、どんなに自分で自分に絶望しようとも、神様は見捨てられず、必ず歩みを支え導いてくださる、そのことを知らされて、徴税人としての毎日を生きていくのです。
私たちは、自分自身の価値は、自分ではわかりません。
まして、人と比べ始めたら、どんどん分からなくなる私たちに、神様は「あなたは私の大切な宝、だからあなたを支え導く」と語りかけてくださっているのです。
神様が私たちをご自分の宝とされ、必ず支えると約束され、神様が大切に慈しんでくださっているかけがえのない命を生きているのです。
それが、聖書を通して示される、私たちの本当の姿なのです。
清和学園は、聖書が示している「私たちは神様に愛されたかけがえのない存在」というメッセージを大切にして歩んできました。
それは、これからも変わることがありません。
今、新型コロナウィルスという思いもしない辛い時を過ごしていますが、その皆さんに、イエス様は語り掛けておられます。
「あなたは神様の宝物、だからあなたを愛して支える」と。
ですから、これから先も、イエス様に支えられて神様の宝物として、自分が自分でしか歩むことができないかけがえのない歩みを歩んで行かれることを思います。
その歩みを、神様は、聖書約束の言葉のように、必ず支え導いてくださるのです。