清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/01/27
ある学生さんから牧師と話をしたいと連絡があり、教会に来てもらいました。
「聖書の教える『赦し』とは、どのようなものなのでしょうか」と言うのです。
その質問に至った理由を聞いたり、質問に答えたりして充実した時間を過ごしました。
私たちは幼少の頃から「相手が謝ったら赦す」と教えられてきたのではないかと思いました。
つまり、「謝罪」という「条件付きの赦し」です。
では、聖書は「赦し」について、どのように教えているのでしょうか。
今朝の聖書の箇所では、弟子のペトロが、イエスのところに来て「人が自分に対して罪を犯した場合、何度まで我慢すれば良いですか。相手を切り捨てるまで、何度まで赦せばいいですか」と尋ねました。
興味深いことに、ペトロは赦すべきことをわきまえているのです。
しかし、ペトロは「回数」にとらわれていて、「ここまでは赦すけど、その限度を越えたら赦さなくてもよい」という「境界線はどこにあるのですか」という質問をしました。
それに対して、イエス・キリストは「数えるのをやめて、際限なく、何度でも赦しなさい」と教えておられるのです。
このような赦しこそ、「天の国」での交わりの特徴であり、神の赦しが無限であり、無条件であることが示されています。
「無限に」とは、赦しの限度を決めて、それを越えないなら赦すのではなく、何度でも赦すということです。
また、「無条件に」とは、相手の態度を見て、「借りを返したら赦す」とか「謝ったら赦す」とかいうのではなく、「相手がどういう態度であれ赦す」という、憐みの赦しです。
このような「無限で無条件の赦し」によって、「あなたが神に赦していただいた罪の大きさに比べれば、人があなたに対して犯し得る罪など、比較にならないのだ、だから、あなたも赦しなさい」と教えておられるのです。
また、ここで示されている赦しの姿は、「自分が赦されるために人を赦す」という自分を中心とした「条件的な行為」ではなく、「自分は赦されたのだから、相手も積極的に赦します」という遜った姿勢なのです。
そうは言われても、自分を傷つけた相手を赦すのは、とても難しいことでしょうか。
「赦せない」、「赦したくない」と、神に反発したくなります。
そのような葛藤の中に置かれるときは、その相手ではなく、神を見上げましょう。
相手を赦すか赦さないかを考える前に、まず、自分の罪をすべて赦してくださる神に目を向けて、感謝し、神との関係をガッツリと築きましょう。
その後で、相手の赦し方を教えていただきましょう。
なかなか赦せない人を赦そうとして、苦しみもだえるあなたに、主の祝福と御助けとお導きが豊かにありますようにお祈りします。